航空機とバリアフリー
すべての人の"普通"を目指して
航空機とバリアフリー
すべての人の"普通"を目指して
誰もが安心して、航空機を使えるように。JAXA航空技術部門では、航空機のバリアフリー化に取り組んでいる。そのひとつとして、株式会社ジャムコと研究開発を行うのが、「ラバトリー(機内トイレ・洗面所)」だ。2021年より地上と同程度のバリアフリー実現を目指して開発を進め、ついにモックアップが完成。研究の始まりから今後の展望までを、JAXA航空技術部門の安岡哲夫と岸祐希、デザインを担当した株式会社ジャムコの萩原久也さんに聞いた。
座席で排泄を行う、という現状
――
まず、ラバトリーの研究開発は、どのように始まったのか聞かせてください。
安岡
私はもともと、航空機の構造そのものを研究する「構造材料系」が専門です。その知見を活かしながら別分野にも挑戦しようと、航空機に関する「健康と福祉」の領域を調べていたのですが、その中で、航空機内の排泄事情が想像以上に深刻だと知りました。排泄や移乗など、日常生活で行われるさまざまな身体的な行動に対して、介助者の手を必要とする「全介助」が必要な方は、航空機においてそもそもトイレに行けなかったり、おむつを使用するなど座席で排泄されたりしています。人権的な観点からも懸案で、早急な対応が必要です。そこで研究対象を機 内ラバトリーに絞り、そのエキスパートでいらっしゃるジャムコさんに声をかけさせてもらいました。
萩原
安岡さんから「インクルーシブな航空機を実現していきたい、そのためにまずラバトリーを」というお話を伺い、共感しました。ジャムコは航空機の内装品が専門です。現状のラバトリーが抱える課題をJAXAさんに洗い出してもらい、ジャムコが形にしていく。私はプロダクトデザイナーとして、社内エンジニアと共にラバトリーを設計する役割を担いました。
――
岸さんは、ご自身が車椅子を使われる当事者でもあります。
岸
はい。私には幼い頃から障害があって歩行ができないため、移動には介助者が欠かせません。航空機に乗るたびにさまざまな不便を感じてきました。加えて私自身、空気力学や最適設計を主とした航空分野の研究者でもあります。自分の意見も踏まえて研究が進められることで、自分以外の障害のある方も利用しやすい航空機に近づくのではないか。そう思って、障害のある当事者と研究者の立場の両方から研究開発に携わりました。
新しいアイデアではなく、"普通"を
――
まずは岸さんをはじめとする当事者にヒアリングをし、研究を始めたそうですが、実際にどんな声がありましたか。
安岡
調査を始めて間もない頃にお会いした、障害のある子どもを持つ親御さんの話が印象的でした。私たちが当時考えていたアイデアや改善案をたくさんお伝えすると、その方は「新しいアイデアはいらないから、とにかく"普通"を実現してほしい」とおっしゃったんです。航空機におけるラバトリーの現状は、地上と比べて足りない部分が多い。新しい機能や価値観を提示する前に、「地上では叶うが航空機ではできないこと」をなくしてほしいと。
岸
当事者の立場からいうと、例えば私の"普通"は電動車椅子で移動することです。しかし現状では、電動車椅子で航空機内に入ることはできません。また「急に予定が入ったから、今からチケットを取ってすぐ飛行機に乗ろう」ということも難しい。また、長距離フライトでは機内に医療機器を持ち込む必要があるのですが、そのためには事前申請や、医師の診断書を手配しなければなりません。障害のない方が乗るのと同じ気軽さでは、航空機を利用することは難しいのです。
安岡
まずは、すべての方の"普通"を担保すること。航空機にまつわるすべての場面で、ユーザーが叶えたい選択肢をすべて用意すること。それがサービスを作る側として据えるべきコンセプトだと強く感じた上で、研究が進んでいきました。
「多目的トイレ」を、航空機へ
――
どのように"普通"を実現したのでしょうか。
安岡
航空機内に、地上の「多目的トイレ」と同等の機能が実現できるようにと目指しました。多目的トイレは、専門家によって検討を重ねた上で作られていますから、それを機内に組み込めるよう検討することが、多くの人々の"普通"に応じる手段ではないかと考えたのです。ただ単にスペースを広げるだけでは、座席数を減らすことになり、航空会社にとっては収益に直結するため好ましくありません。これがラバトリーの導入に対する課題にもつながるため、そのバランスを図ることが、開発のポイントでもありました。便器の前方の約1mのスペースを確保すればよいという結論に至り、通路を利用してスペースを確保するアイデアを採用しました。
萩原
今回はより飛行距離が長く、機内に2本の通路がある航空機を想定しています。その2本の通路を繋ぐ、クロスアイルと呼ばれる横向きの通路を一時的に使用するアイデアを採用することで、従来の椅子の数を変更することなく、広いラバトリーを実現しました。
はじめは本当にアナログで、段ボールで作った模型を会議室に運び、岸さんや実際に車椅子を使う方々と意見を交わしました。そうして多くの要求を満たそうと検討した結果に、現在の「3つのモード」を携えたラバトリーが完成しました。
航空機にも、バリアフリーを。
当たり前の価値観を醸成していく
――
今後の航空機のバリアフリーについて、目指す姿を教えてください。
安岡
私たちが考えるバリアフリーは、「すべての人の"普通"を担保すること」。その実現を推し進めることが、やはり当面の目標になります。今回のラバトリーを設置できたとして、「座席へのアクセシビリティ」と呼ばれるような、ラバトリーに行くまでの通路の狭さや、搭乗時に座席まで行くことそのものの困難さは、引き続き課題として残っています。
岸
ラバトリーだけを劇的に良くしても、チケットの予約から空港でのチェックイン、フライト、着陸してから空港を出るまでの一連の流れが総合的に改善されなければ、その良さを活かしきれません。まずは「手続き等を行えば、誰でも航空機を使える」という状態を確保するのが、第1ステップ。最終的には、やはり「健常者と同じように気軽に乗れる」状態を目指したいです。障害あるなしにかかわらず、誰もが当たり前に航空機で移動できる。それが目指すべきバリアフリーだと思っています。
萩原
今回のラバトリーも、まだ実際に導入される事例は決まっていません。今すぐにでも乗せたいものですが、導入には多大な費用が必要ですし、シート数への懸念も根深く残ります。課題解決には、航空機のバリアフリーの現状を多くの方に知っていただき、社会の共感を得ていく必要があると思います。
安岡
JAXAでは、バリアフリーにまつわる山積する課題への解決策を「62のソリューション」としてまとめ、今年9月に公開しました。今回のジャムコさんとの協働のように、各専門家と課題を共有することで、ひとつひとつの課題と向き合っていきたいと思っています。
JAXAだからこそ、できること
安岡
ラバトリーの研究を通して、JAXAがバリアフリーに取り組む意義を改めて考えました。バリアフリーというと、建築・工業デザイン、IT、医療・介護など、さまざまな分野を横断する領域です。鉄道や公共施設などでは徐々に発達し、国内でも多くの取り組みがなされていますが、航空機に関しては空港施設を除いてほとんど事例がありません。
萩原
だからこそ今回のお話をJAXAさんからいただいたのは、私たちとしてはとても新鮮で、刺激的でした。長らく必要最低限の設備で良しとされてきたことに対して、よりよく変えようと提案をくださいました。
岸
今後JAXAとしては、モックアップに込めたコンセプトを発信して社会実装に向けた社会的な気運を高めていくことに加え、航空機に設置すべきラバトリーの要件を標準化するということも視野に入れていきたいです。少し遠回りにも見えるかもしれませんが、航空機を取り巻く社会環境からバリアフリーを後押しするのが、公的機関としてできることのひとつではないかと。
安岡
JAXAは中立的な立場でもあるので、ジャムコさんのようなメーカーや航空会社、空港など関係各所へも相談しやすいですし、組織としても信頼をいただいています。国内における航空機のバリアフリーに対しては、JAXAだからこそ取り組めるという必然性がある。「航空機にもバリアフリーがあって当然だ」という価値観を、社会の中で醸成していく活動も積極的に行っていきたいと思います。
Profile
(写真左)
JAXA航空技術部門
航空安全イノベーションハブ
岸祐希 KISHI Yuki
神奈川県出身。大学の特任教員やシステムエンジニアを経て2023年に入社。現在は水素飛行機や航空のバリアフリー化、回転翼機に関する研究などに従事している。元々飛行機や鉄道に目がなかったが、最近は大型トレーラーの運転シミュレータにハマっている。
(写真中央)
JAXA航空技術部門
航空安全イノベーションハブ
安岡哲夫 YASUOKA Tetsuo
高知県出身。専門は材料力学と破壊力学。石油会社や航空機メーカーで実務に携わり、JAXAでは航空機構造の研究に従事してきた。2021年に新分野開拓研究として航空のバリアフリーに関する取り組みを立ち上げる。趣味はカクレクマノミとナマコの飼育。
(写真右)
株式会社ジャムコ
技術イノベーションセンター
萩原久也 HAGIWARA Hisaya
埼玉県出身。専門は工業デザイン。デザイン会社でAudio Visual機器を中心にデザイン実務に携わり、ジャムコでは航空機内装品のデザインに従事してきた。JAXA航空技術部門とともに、2021年からラバトリーのデザインを担う。趣味はマラソンやトレイルランニングなどの走ること全般。
撮影:中村麻子
文 :熊谷麻那
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