H3ロケットの開発を支える数値シミュレーション技術
H3ロケットの開発を支える
数値シミュレーション技術
ロケットやそれを打ち上げるための地上施設など、JAXAがさまざまなものを開発・製造するうえで欠かせない「数値シミュレーション技術」。この技術の意義やH3ロケット開発での活用について、研究開発部門で研究領域主幹として研究全般を取りまとめている根岸秀世が語った。
極限環境を再現できる、バーチャルな実験
ものづくりにおいて、数値シミュレーション技術はコンピュータ上で環境を作り出して実験する、言わば"バーチャルな実験"。産業界では以前から用いられており、特に自動車業界では実験をほとんど排除することを目指しているほど浸透している技術だ。JAXAでは、前身となる航空宇宙技術研究所(NAL)の時代から、航空機やロケットの開発における数値シミュレーション技術の研究開発を進めてきた。
「数値シミュレーション技術を用いることで得られるメリットは大きく3つある」と根岸秀世は話す。
「まず、物理現象を詳細に再現できること。たとえば、ロケットの打ち上げ時に発生する音の振動が、搭載している人工衛星にどのような影響を与えるかを確かめたいとき、実験で検証する場合は模型などを作り、煙を吹いて音の計測をするのですが、得られるデータは誤差が大きかったりするんですね。だから情報がすごく限られるんです。
それに対して数値シミュレーションは、3次元の動画として実際の物理現象を詳細に再現できるので、音響波がどのように空間に伝わり広がっていくかなど、複合的で多様な情報を得ることができます。
さらに、推力がどれくらいになるのか、寿命がどれくらいもつのかという定量的な数字も実験だとなかなか算出できないのですが、数値シミュレーションであれば出すことができます」
「ふたつ目は、そもそも実験ができない環境での現象を再現できることです。宇宙は真空なので空気がないし、重力もほとんどありません。そういった環境での、たとえばタンク内の液体の状態を地上で再現するのは不可能なんです。ところが数値シミュレーション技術を使えば真空や微小重力を再現できるので、宇宙で実験ができなくても現象を確かめられる。その結果から『このパーツの形をこう変えよう』といった設計検討をすることができます」
「3つ目は、数値シミュレーション技術が汎用的技術だという点です。私たちが使っている数値シミュレーション技術は、宇宙だけにしか使えないわけではありません。自動車の空力設計や風力発電機の羽根の形の検証など、地上のほかの産業にも適用することができるんです。最近よく目にする、くしゃみで飛沫がどれだけ飛ぶかといった公衆衛生の数値シミュレーションも、もともとは航空業界や宇宙業界で発展してきた技術を適用したもの。そんなふうにどんどん蓄積・継承され、他産業にも展開できるという意味でも、非常に意義のある技術だと思っています」
新型ロケットの開発に欠かせない技術
数値シミュレーション技術はその計算を担うスーパーコンピュータの進化とともに発展し、ロケット開発で用いられるようになったのは2000年ごろ。ロケットエンジン丸ごとを3次元で数値シミュレーションできるようになったのは2010年前後からだ。
根岸は、このことが「ロケットの開発プロセスを大きく変えました」と話す。
「数値シミュレーションがまったくなかった時代は、まず『こういうロケットを作ろう』と計画したら、そのまま設計に入っていました。その後、たくさん試験をするのですが、もちろん一度ですべてに合格することは不可能です。いろんな不具合が出て、そのたびに設計をやり直してまた試験をすることを繰り返していました。その結果、開発期間が長くかかるだけでなく、費用もそれだけ多くかかっていました。
現在進めているH3ロケットの開発では、工程に数値シミュレーションを組み込み、試験をする前に不具合を洗い出せるようにしています。あらかじめリスクを絞りきるので、試験後はそのまま製造、運用まで一気通貫に進めることができるという考え方です」
H3ロケットの開発は、プロジェクトを先導する宇宙輸送技術部門と二人三脚で進めてきた。
「プロジェクトが立ち上がったのは2015年頃ですが、それ以前の構想段階から、『将来こういうロケットをつくるなら、こういう課題が出てくるので、早めに数値シミュレーション技術を研究開発しておいて、設計の際に使えるようにしていこう』というような、長期スパンでの連携をしてきました」
H3ロケットの開発で行ったもののひとつに、LE-9エンジンのタービンの疲労を低減するための数値シミュレーションがある。
「タービンを動かしてポンプを回すことによって、エンジンの中に燃料が流れます。タービンは風車のような動く動翼が2列並んでいます。この動翼に強烈なジェットが当たって回る仕組みなのですが、とある周波数になると羽根がゆらゆらと揺さぶられてしまい、状況によってはヒビが入ってしまったりする。その対策として形状を変えてみようということになったので、さまざまな形状の案を判断していく方法として数値シミュレーション技術が用いられています」
さらに、燃焼器の内壁がどれくらいの温度になるのかといった予測も数値シミュレーションを使って行った。
不具合をなくし、スムーズな開発を目指して
これまでを振り返り、「実験だけで進める時代から数値シミュレーションが設計開発のひとつのプロセスとして組み込まれる時代に変わり、役に立てているというのが率直な実感です」と根岸。
ただH3ロケットについては、当初2020年度中に試験1号機の打ち上げを目指していたが、最終段階の試験でLE-9エンジンに課題が見つかり、打ち上げも延期されることになった。
「燃焼室の内壁が開口してしまったという問題と、水素タービンの疲労という問題のふたつがあります。現在は目下、この問題をクリアするために全力で取り組んでいる状況です。
数値シミュレーション技術はまだまだ未成熟な部分があります。現段階では、エンジンなど複雑な構造なものだと、十分な数値シミュレーションができるのはポンプだけ、タービンだけといったパーツ単位なんですね。でもH3ロケットで生じたのは、パーツが組みあがったあと、エンジン全体を試験したときの不具合。ですから、エンジンまるごとをシミュレーションできるようにすることが今後の研究課題です。数値シミュレーション技術が宇宙開発のプロセスを変えることを目指して、これからもチーム一丸となって取り組んでいきます」
Profile
研究開発部門
第三研究ユニット 研究領域主幹
根岸秀世 NEGISHI Hideyo
東京都出身。JAXA(旧NASDA)入社後、一貫して液体ロケット(特にエンジン)に係る数値シミュレーション技術研究およびそれを活用した実設計開発に従事。趣味はテニスと犬に遊んでもらうこと。最近は"なぎなた"の魅力にはまり、日々自己研鑽に励む。
取材・文:平林理奈
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