具象と抽象のあいだを行き来する学問
数学・数式の情(こころ)に触れる
具象と抽象のあいだを行き来する学問
JAXAの取り組みにおいて欠かせない学問、それが数学だ。数式を通して世界の真理に近づくことで宇宙航空分野の研究開発は進んでいく。つまり生活者である私たちにとってはあまり馴染みのない数式も、JAXAの研究者にとってはインスピレーションの宝庫だったりするのだ。そんな数学の情(こころ)に少しでも触れて見たい。そこで83号のタブロイド版に掲載した「数式が私たちに世界を教えてくれる」の番外編として最も難解な数式のひとつ、ナビエ・ストークス方程式を扱う、航空技術部門・数値解析技術研究ユニット長の青山剛史と同ユニットに所属する数学者の相曽秀昭に話を聞いた。
誰の主観で捉えてみても、
"正しい"と思える世界
―物事を判断するときに文系的なマインド、感覚的には情緒や主観を重んじていると、数学や数式の世界とは、"主観"が徹底的に排除された、"客観の世界"に思えるんですね。解がひとつであるという先入観も相まって。
相曽
なるほど。でも実は、数学や数式というものは、主観が許されない世界なのではなく、誰の主観で捉えてみても、"正しい"と思える部分を抜き出す世界なんです。
―そういう見方ができるんですね。相曽さんの視点から数学に触れ合えるとするなら、文系の人間であっても「もしかしたら自分も参加できるかも」。そんな意欲が湧いてきました。
相曽
それは良かったです。さらに言うと、数学や数式は芸術と同じように"文化である"と、私は思います。私や青山は普段、飛行機の翼の周りに生じる空気の流れをシミュレーションする「数値流体力学(CFD)」を研究していますが、大きな意味でそれは自然科学の領域の研究でもあるんですね。自然科学とは自然界の法則性を明らかにする学問ですが、そのうちのひとつである物理学は、物の理(ことわり)を科学します。"ことわり"とは、物事の筋道、条理、道理のことを指しますが、物事の筋道をどのように認識、理解するのか。結局それはひとりひとりの精神性、個別性に深く関わってくるわけですから、そういった意味においては自然科学もまた、文化のひとつと言えるでしょう。
―おもしろい視点ですね。その自然科学において数式は欠かせないツールであるわけですが、ここで改めてJAXA's 83号タブロイド版(P19)で青山さんに解説いただいた、「ナビエ・ストークス方程式」(以下NS方程式)について触れてみたいです。数学的には重要な未解決問題を抱えているというNS方程式ですが、もしも問題が解決した場合には、世界はどのように変わるのでしょう?
青山
まず NS方程式が解けた際には、おそらく数値流体力学(CFD)に取り組んでいる我々研究者は全員失業してしまう。それぐらい大きなインパクトになりますね。
相曽
完全に解けたらの話ですが、青山のいう通りですね(笑)。
―なかなかのインパクトを持つNS程式ですが、そもそも航空機の翼周りの流れの決定のほかに、NS程式はどのような現象を決定づけるのでしょう?
青山
たとえば、川の流れから生体内の血流まで。NS方程式とは"流体"が関与するものすべての運動量の保存を表した、「偏微分方程式」です。ですがお話ししている通り、NS方程式はあまりに複雑な方程式のため、未だ完全には解けてはいないので、かつては、いろいろな条件を設定して方程式を単純化することで解を求めるというのが一般的に行われていました。しかし、スーパーコンピュータが現れ、それを駆使した数値流体力学(CFD)が発達したため、結果的にNS程式の近似解を求めることが可能になりました。
―なるほど。だからこそ、NS方程式を完璧に解けてしまったら、数値流体力学(CFD)の研究をされているおふたりは失業してしまうと。
青山
そうです。NS方程式が解けた世界というのは、それまでスーパーコンピュータを使ってとんでもない時間や様々なリソースをかけて計算を行ってきたものが、一瞬のうちに答えが出る世界になるということです。結果、いろんな流体現象に対する理解がどんどん深まっていきますし、何かものを作るときには、こんな形にすべきだという解もまた、あっという間に出てくると。NS方程式は天気予報にも応用されていますので、予報の速度もガラッと変わるでしょうね。
―ちなみに「スーパーコンピュータを使ってとんでもない時間をかけて計算」の、その "とんでもない"とは、どのぐらいのスケールの話でしょうか?
青山
それは対象にもよりますが、例えば大きな旅客機が一機あるとして、その旅客機の周りの空気の流れを計算するのに、JAXAのスーパーコンピュータで2分かかります。
―2分。予想よりも十分に速いです。
青山
10年前までは1日程度かかっていたことを考慮するともちろん早いですが、スーパーコンピュータを何台も使った上での2分です。それも十分に細かいところまで解こうとはしてなくて、飛行機を浮かび上がらせる揚力がどの程度になるかを大雑把に見積もった計算で、2分。これが例えばその揚力を作る微細な渦まで細かくちゃんと計算しようとすると、1、2週間。場合によっては1カ月とか、そういうレベルで時間がかかります。
相曽
今の話を補足すると、1日かかっていた計算が2分まで短縮できたという背景には、まずスーパーコンピュータの性能がよくなったことが挙げられますが、同時に数値計算のプログラミングを担当した技術者たちが力を尽くした結果でもある。ということは、お伝えしておきたいです。
数学による解析を生かした、
物作りをしている
―テクノロジーの発展によって、計算する人間の身体から離れて、スーパーコンピュータのような人間の脳を超えた機械が自ら計算する社会というものに、追いついていかない自分がいます。
相曽
つまりは数という概念が人間から生まれたものであるのに、それが一人歩きして人間を疎外していると(笑)。
―疎外とまでは思ったことはありません(笑)。もちろんよりよく暮らすためのテクノロジーの発展は賛成ですが、同時にヒューマンスケールを超え続けていくことによって、生活者としての実感が置いてきぼりになるのは少し寂しいというか、違和感を感じる瞬間があるということです。そういった意味でも、そのテクノロジーの最前線にいるおふたりに話を聞きながら、わからないなりにも少しずつ仕組みを知って、実感していきたいという気持ちがあります。
相曽
人間は様々な学問を生み出してきましたが、その学問の概念は人間の有機的なものから生まれていますよね。その概念が例えば抽象的に抽出されてしまうとするならば、生活者である人間と離れていってしまうことも、あるのかもしませんね。ですが、我々が取り組んでいる研究というのは、数学による解析を生かした具体的な航空分野に関わる物作りをしているんです。
青山
学問にも分類がありますが、我々が属する航空技術部門においての仕組みでいうと、まず第1の科学的手法は「実験」、第2の科学的手法は「理論」。そして第3の科学的手法が、数値流体力学(CFD)による「数値シミュレーション」と言えるんですね。相曽は第2の科学的手法である「理論」を行う数学者であり、私は第3の数値シミュレーションを研究している工学者であると。つまり数学者と、スーパーコンピュータという名の計算機のあいだに、数学の理論を計算機にわかるようにプログラムを書く工学者がいるわけです。このようにみんなで役割分担をしながら、物作りをしているので、懸念されているような計算する人間の身体と機械が極端に離れているわけではないんですよ。
―改めて前提や仕組みを知ることって大切ですね。
相曽
青山が言うように役割分担は明確ですが、研究開発を行う上では、この3つの手法をはっきり区別するのではなく、グラデーションでつながっていることがとても大切です。実際はそれがなかなか難しくもありますが、開発力とはなだらかなグラデーションでつながっていることでこそ、育まれるものだと思います。
―そしてその3つをつなぐ共通言語こそが、数式や、数式を利用したNS方程式であったりするわけですね。
相曽
そういうことですね。
数学の本質は、計算ではない
相曽
もともと数学というと、イコール計算に結びつける人が大半だと思いますが、実は計算はあまり関係ないとも言えるんです。
―それは計算が苦手で数学の世界から脱落した私の立場からすると、視界が晴れてくるお話です。
相曽
例えば原始人にとっては"みかんが3個"と"りんごが3個"は違っていたはずです。実際にみかんやりんごがこの時代に存在していたかは別として。
―どういう意味でしょうか?
相曽
みかんが3個、りんごが3個。加えて羊が3頭、人間が3人いたとします。それぞれ物質としては違うわけですが、どれも「3つ」、存在しているという点では共通していますよね。というように物事を抽象化する、できるのが、数学の本質なんです。
―「3」は具象ではなく? 抽象に値するんですね。
相曽
例えば物差しで1cmと呼ばれる単位があって、それが3つあるから3cm。1gの重さが3倍で3gは具象ですが、「みかんもりんごも羊も人間も、それぞれ3だった」は、物事の抽象化です。
―確かに。すごく腑に落ちました。
青山
全然違うように見えるものも、ある一つの観点から見ると同じではないか。共通項を見つけるということが、数学的素養の最大の特徴ですね。抽象化する。そういう頭の使い方こそが数学においては一番大事な概念だと思います。
相曽
例えば、手前に羊が3匹、遠くに羊が2匹いて、合わせたら羊は5匹。これは数学で表すと「3+2=5」になりますよね。
―はい。その計算はできます(笑)。
相曽
この、「3+2=5」になるという性質があるんだとわかった時点で、本質的には物事を抽象化しているんですよ。
―なるほど。「計算した」という事実にばかりピントを合わせてきましたが、そうやって考えていくと私たちは日々、知らず知らずのうちに数学を使って、物事を抽象化していたわけですね。
青山
そういうことです。そして抽象と具象のあいだを行き来すること。それが普段、我々が使っている思考かもしれません。
相曽
計算という側面も大いに役立ちます。ですが、考え方の枠組みを抽象化、一般化することで全く別軸にあったふたつの問題を、例えば同じ数式で解いてしまえる。そういう可能性を提供しようとするところもまた、数学の役割だということを少し頭の片隅に置いていただけたらと。
―言い換えるとそれは、最小限の仕組みや手順で幅広く複雑な現象を取り扱うことができるということですよね。うまく言えませんが、数学とはエレガントな学問だと思いました。苦手意識が薄れるような時間を(笑)、ありがとうございました。
Profile
航空技術部門
数値解析技術研究ユニット長
青山剛史
AOYAMA Takashi
東京都出身。数値シミュレーションの研究をする部署の取りまとめ役をやっています。昔はかなり真面目にテニスをやっていましたが、今は早起きしてペットの柴犬の散歩することが楽しみになっています。
航空技術部門
数値解析技術研究ユニット
相曽秀昭
AISO Hideaki
主な業務内容は、計算流体力学(CFD=Computational Fluid Dynamics)の計算法周辺。近年は増加するCFDツール(プログラム)のユーザー向けに、使いこなしに必要な数学的基礎をどのように伝えるかについても思案中。幼少期から鉄道好きで今でも東京―関西間であれば青春18きっぷで楽勝です。鹿児島から東京まで新幹線乗り通しも好き。
取材・文:水島七恵
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