対談「大空を飛躍する」
空気の入り口
対談
「大空を飛躍する」
葛西紀明(スキージャンプ選手)
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松尾裕一(航空技術部門 基盤技術統括)
宇宙と空の違いはひと言で言うと、空気があるかないか。アプローチ、踏み切り、飛行、着地と、空気を味方につけながら、トップアスリートとして活躍し続けるスキージャンプ選手の葛西紀明さん。日本の航空機産業の発展のため、日々研究を重ねているJAXA航空技術部門の研究者、松尾裕一。空気の存在は現象を複雑にする。だからこそおもしろい。そんなふたりの大空を飛躍するための対話。
300トン以上の機体が
揚力によって浮く
葛西
そもそも飛行機はなぜ飛ぶんでしょう?
松尾
なぜ、飛ぶか(笑)。
葛西
子どもに聞かれたときにどう答えたらよいか、ぜひ教えてください(笑)。
松尾
鳥が空を飛べるのは鳥が翼を持っているからで、飛行機が空を飛べるのも、やはり翼があるからです。
葛西
翼がへの字になってるからですか?
松尾
その翼に前から空気が当たると、空気は上下に分かれて流れます。翼の下側は高圧に、上側は低圧になるので、その差圧で翼を持ち上げようとする力が働きます。この力を「揚力」といって、飛行機は揚力によって空中に浮かび上がったり、飛んだりすることができます。ただし、そのためには速い空気の流れを翼に当てなければなりません。飛行機が浮かび上がるために強力なエンジンで速度を上げながら滑走するのは、このためなんです。
葛西
揚力の力ってすごいですね。
松尾
はい、大型ジェット機は搭乗者を入れて300トン以上の重さになりますが、その重さを揚力が浮かせますから。説明になっているでしょうか?(笑)
葛西
なかなか難しいです(笑)。東京大学のなかに、風を人工的に発生させる風洞実験施設があるのをご存知ですか? 以前、そこでスキージャンプ選手の理想的な姿勢を探る実験に参加したことがあるんですが、施設の中には実際の機体を模擬した飛行機の模型が置いてありました。僕はそこで初めて翼の形はこういうふうになっているんだと知って。
松尾
飛行機の主翼を横から見ると上側が丸く膨らんでいるんですが、"膨らんでいる"というのもひとつのポイントで、これをキャンバーと呼ぶんです。翼のキャンバーによってより大きな上向きの揚力を発生させる。そういう原理になってます。
葛西
先日、札幌から名古屋まで飛行機で移動したんですけど、途中天候が悪くてすごく揺れたんです。そのとき飛行機の翼もぐんぐん揺れて怖かったんですが、揺れすぎて翼がバキッと折れたりすることはありませんか?
松尾
絶対大丈夫です。飛行機にとってその程度の揺れは、痛くもかゆくもありません(笑)。そもそも翼は緻密な計算と設計によってある程度曲がるように作られていますし、荷重試験で翼が通常ではありえないくらい大きく曲がってしまう力を加えても折れません。ただどんなに飛行機が無事でも、搭乗者にとってその揺れは厳しいということはありますよね。なので我々はその揺れをできる限り避けるための研究をしています。
葛西
それはどういう研究ですか?
松尾
機体の先端からレーザー光線を出して、あらかじめ激しい揺れを察知して回避するという研究です。そもそも揺れが起きるというと雨雲などを想像されるかと思いますが、雲のような視覚的な兆候を全く伴わずに気流が乱れてるところがあるんですね。それをClear-AirTurbulence、晴天乱気流といって、そこへ飛行機が突っ込んでしまうと大きく揺れてしまうんです。その晴天乱気流を回避するのがレーザー光線を使ったライダーという技術です。
葛西
今のお話を聞きながら、ちょっとずつ安心してきました。
松尾
統計的には数100年間、毎日飛行機に乗っていても落ちることはない。そのぐらい飛行機は今安全な乗り物ですから、葛西さん、大丈夫です(笑)。
超音速旅客機の
実現を目指して
葛西
試合や遠征などでこれまで飛行機は何百回と搭乗してきましたが、向かう先がヨーロッパとなると10時間以上はかかるのできついですね。到着してすぐに練習して試合という流れになるので、コンディションを整えることにも気を配ります。この空の上の時間がもう少し短縮されないかなあというのは、やっぱり思ってしまいます。
松尾
そうですよね。それを解消させるためにも今我々は通常のジェット旅客機の約2倍の速さで飛行する、超音速旅客機の実現を目指して研究開発をしています。
葛西
素晴らしいですね。その実現は何年後ぐらいになるのでしょう?
松尾
いい質問ですね(笑)。そしてそれが一番の課題でもありますが、我々としてはできるだけ早く実現したいと思っています。ちなみにアメリカのベンチャー企業、ブーム・テクノロジー社は、2020年代半ばの実用化を目指して超音速旅客機を開発中で、JAL(日本航空)がこのブーム社と資本・業務提携したと発表しています。他のベンチャー企業も海外大手機体メーカと連携して開発を加速するなど、世界で実現に向けた動きが活発になってますね。
葛西
超音速旅客機は、もうそこまできているんですね。
松尾
その上で我々が目指しているのはブーム社の目指す超音速旅客機よりももう少し大きい機体で、50人は搭乗できるような旅客機を目指しています。そもそも超音速旅客機というと、2003年に引退したコンコルドが有名ですが、引退した背景には技術課題があって、それがソニックブームと呼ばれる大音響を伴う圧力波なんです。これが地上まで届いてしまうために、超音速飛行はニューヨークーパリ間という洋上のみしか許されませんでした。そんなソニックブームを低減するための設計方法を現在、我々JAXAは開発しているんです。
より飛距離を伸ばすために
必要な身体性
松尾
ところで葛西さんは「なぜ飛ぶことができるんですか?」と聞かれたら、なんてお答えしますか?
葛西
うーん、難しいですね(笑)。子ども相手であればまず「飛ぶためには前傾姿勢を取らないと風をつかめないよ」って話しますね。なぜならスキージャンプのやり始めというのは怖くて前に行けなくて、上に飛んでしまうものなのですが、そうすると飛距離が全然出ないんです。なのでまずはぐっと前傾姿勢を取ること。「それで風を受けることができるし、飛距離が伸びるよ」って教えますね。これが中高生になってくるともう少し細かい部分、例えばアプローチ(助走路)で得た重力による位置エネルギーを、ジャンプ台先端のカンテ(踏切台)でいかに運動エネルギーに変換するかの勝負になるので、そのタイミングなどの話をします。
松尾
空気抵抗を極力減らすためにアプローチでは身体をくの字にして頭から滑り降りていますが、カンテでは一転して高速で勢いよく飛び出さなくてはいけませんよね。
葛西
はい、なのでアプローチでの姿勢や重心の置き場所も重要ですし、カンテの5m前ぐらいから少しずつ脚が伸び上がっていくんですよね。つまりパワーを徐々に脚元に伝えていってぐっと空中に飛び出し、体勢とスキー板の位置を変えて浮力を最大化させる。そうすることで飛距離を伸ばしていきます。
松尾
選手がカンテから飛び出したときの板や身体の形はまるで飛行機の翼のようで、まさに揚力を得ることで飛翔距離を伸ばしているなあと感じていました。つまりスキージャンプと飛行機の共通点は、目には見えない空気の流れを利用して飛んでいる、と。
葛西
たぶん今まで誰にも言ったことないと思うんですが、僕は飛行機のイメージで飛んでいるんです。
松尾
そうだったんですか。
葛西
両腕を斜めに広げつつ、手のひらを開いて下に向けている。それが僕の飛んでいるときのフォームですが、その姿は動物のモモンガに似ていることからモモンガ・ジャンプとも言われたりしています。けれど僕自身は飛行機の翼をイメージしながら飛んでいました。もともとは両腕を身体に引き寄せながら飛んでたんです。でも2010年、当時のコーチから「両腕をちょっと身体から離せ」と言われてやってみたら、これは飛行機だと思って。以来、少しずつ身体から両腕が離れていきました。
松尾
まるで飛行機のフラップ(高揚力装置)のようですね。
葛西
はい、飛行機が離陸するときや着陸するときに翼からフラップがスルスルと伸びてきますよね。あの感覚で手を広げて「どうだ!」という感じで、僕は飛んでいるんですよ。
自然現象を方程式で
可視化する
松尾
先ほど葛西さんから風洞という言葉が挙がりましたが、JAXAの調布航空宇宙センターにも風洞設備があります。風洞とは目には見えない空気の流れによって起こる現象を模擬的に再現することができる装置ですが、JAXAでは風洞のなかに航空機の模型を置き、模型が受ける空気力を測る実験を行ってきました。そしてこの風洞実験のほかにも空気力を測る手段として、数値シミュレーションというものがあるんです。私の専門はまさにこれでして、航空機が受ける空気の流れを表す方程式を探し、それを計算機上で模擬実験しているんです。
葛西
数値シミュレーション、初めて聞きました。
松尾
自然現象や社会現象をコンピュータの中で模擬すること。これを数値シミュレーションと呼んでいます。どれだけ揚力が生まれるか、空気抵抗が発生するのかなど、それを、方程式を使って計算しデータ化して可視化していくんです。その結果、例えば新しい機体を設計するためのさまざまな指針を出したり、実際に飛んでるときの状態を検証することに活用できるんです。
葛西
風洞実験ではなく、数値シミュレーションを選択する場合というのはどういうときですか?
松尾
実験に費用がかかる場合や実験に大きな危険を伴うような場合、実験条件に合うような環境を作り出すことが困難な場合などにおいて、数値シミュレーションはコンピュータが行うものなのでとても有効です。それでこの数値シミュレーションを活用して、葛西さんのようなスキージャンプ選手の空気の流れをコンピュータで計算して可視化できないか?と思ったんです。
葛西
飛行機ではなく生身の人間にも応用できるものなんですか?
松尾
できます。それが数値シミュレーションの優れたところです。そもそも計算は物体を覆うように空間内に分布させた点上でしかできないんですよね。「点上でしか」というのは、計算機は数字しか扱えませんから、その数字に対応する実際の点が必要で、問題はその点をどういうふうに分布させるかなんです。例えば飛行機のまわりの流れを計算しようとしたときに、その点をどう上手く分布させるのか。それがかなりポイントになってくるのですが、今我々が持っている技術は、究極に近いところまで突き詰められています。つまりどんな物体に対してもそのまわりに点を分布させることができるんです。
葛西
すごいですね。
松尾
なので例えば葛西さんの飛び方のシミュレーションをして、どういう状態で飛んでいるのかを可視化する。そのうえでこの飛び方の、ここをこう直せばもっと飛べる可能性が出てくる。といった分析もできるかもしれません。ただひとつ課題があるとしたら、飛行機は固いのでほぼ変形しませんが人間はかなり変形します。そうすると点の分布を変えていかなくてはいけないので、それに関しては工夫が必要にはなりますね。ただ、基本的にはできます。
葛西
90年代初頭、スキージャンプ界ではそれまでの板をそろえた「クラシックスタイル」からV字に開く飛型が主流になりました。ですがそのV字になってから何十年と経ちましたし、そろそろなにか新しい飛び方を開発したいですね。今の飛び方に飽きているわけではありませんが、「なんだこれは!」っていう飛び方がしたいです(笑)。
松尾
計算してみてとんでもないスタイルが導き出されたら、それはもう、提案したいです。どうします? 飛距離10m伸びたら。
葛西
誰にも教えないです(笑)。
松尾
(笑)。ところでスキージャンプは飛距離だけでなく、飛行や着地の姿勢の美しさなどの「飛型」 も採点されるスポーツだから、難しいですよね。
葛西
隙がないですね。でも一番細かくて難しいからこそ、やりたいんだと思います。これまでさまざまなスポーツを経験してきましたけど、そのなかでもやっぱりスキージャンプが一番難しいスポーツだなと感じていて。アウトドアのスポーツなので、自分の能力や技術だけでは決まらない。空気を含めたその場の自然環境でも決まるスポーツです。自分の思い通りには絶対にいかないからこそ、「ちきしょう」って言いながら完璧を求めていくんじゃないかなと思います。
松尾
思い通りにいかない。それでも飛び続ける理由はなんでしょう?
葛西
飛ぶことが一番好きだから。それに尽きますね。今までやめたいと思ったことないんです。調子よかろうが悪かろうが、「飛びたい、好き」っていう気持ちが消えたことはありません。あとはやっぱり「勝ちたい」っていう気持ち。応援してくださる方がたくさんいてその期待にも応えたいという、その一心ですね。今日も午前中は走ってトレーニングしてたんですけど、ふっと我に返って、「俺、何でこんなトレーニングするんだろうなあ」と。でもやっぱり勝ちたい、また金メダル取りたいんだ。そう感じながら今日はトレーニングしてました。
時速105キロ、
約8秒の空の旅
松尾
完璧ではないからこそ、それを追い求めて続けていく。おこがましいですが、私自身も同じ気持ちで日々研究に取り組んでいます。先ほど、数値シミュレーションをするには方程式が必要というお話をしましたが、私自身は最終的にナヴィエ・ストークス方程式を完璧に解きたいという想いがあります。この方程式、とても重要であるにもかかわらず、厳密に解くのは極めて難しく、数学的には重要な未解決問題の一つとされています。今も世界中の研究者が取り組んでいますが、解けていないんです。
葛西
ナヴィエ・ストークス方程式は飛行機を飛ばすために重要な方程式なんですか?
松尾
はい、流体の運動状態での性質を研究する流体力学ではこの方程式を元に理論が出来上がっています。ですが、方程式があまりに複雑なため、理論的にはいろいろな条件を設定して方程式を単純化し、そこから流体の性質を導くということが行われてきました。だからこのナヴィエ・ストークス方程式を解けるということが、我々で言う完璧なんです。これが解けたら、金メダルです(笑)。根本的な質問なのですが、葛西さんはジャンプするときに怖さはないんですか?
葛西
スキーフライングのジャンプ台は怖いです。このジャンプ台は現在ドイツ、オーストリア、ノルウェー、チェコ、スロベニアの5カ所しかなく、日本にはありません。いつ飛んでも怖いです。怖いですが、どれくらい飛距離が出るかな?というワクワク感のほうが勝りますね。
松尾
スキーフライングでの200m級のジャンプは、ノーマルヒルの約2倍、約8秒飛ぶことになりますよね。
葛西
はい。時速も105kmぐらい出ますね。
松尾
それはもう、まさに鳥になったという感触ですよね。葛西さんはそのスキーフライングで約230m、飛んだんですよね。
葛西
最高は241mですね。
松尾
いやあ⋯⋯。信じ難いですよ。
葛西
それでももっと自分を超えていきたいんです。なのでぜひ、僕の飛び方をシミュレーションしてください。なにかありましたら僕、すぐに試しますので(笑)。
松尾
はい、わかりました(笑)。
Profile
葛西紀明(スキージャンプ選手)
1972年北海道下川町生まれ。土屋ホーム選手兼監督。1992年アルベール五輪以来、2018年平昌大会まで8大会連続出場。リレハンメルで団体銀、ソチで個人銀、団体銅の計3つのメダルを獲得。W杯最年長優勝、冬季五輪8回連続最多出場、ジャンプ最年長メダリスト、W杯最多出場、世界選手権最多出場の五つのギネス世界記録を持ち、47歳を過ぎても世界の第一線で戦うレジェンド。
松尾裕一(航空技術部門 基盤技術統括)
長野県出身。1989年東京大学大学院工学系研究科機械工学専攻博士課程修了。工学博士。同年科学技術庁航空宇宙技術研究所入所。1992年NASA Ames研究所客員研究員。これまでに、乱流モデリング,数値シミュレーション等の研究や、スーパーコンピュータの調達・運用等に従事。スポーツ全般に興味があり、大学時代にスポーツ選手まわりの流れの可視化に携わった経験がある。
取材・文:水島七恵 写真:辻田美穂子