異文化・異業種インタビュー

JAXA×クリエイティビティ #04

JAXACREATIVITY
#04

宇宙とは柔軟で包容力のあるテーマだから、
もっとたくさんの人を巻き込んでいきたい

森脇裕之さん(宇宙芸術家)

MORIWAKI Hiroyuki SPACE ARTIST

 コロナウイルス感染症拡大前の2017年から2019年まで毎年開催されてきた「種子島宇宙芸術祭」は、"宇宙をテーマにした新しい芸術祭"という取り組みでした。その総合ディレクターを務めた森脇裕之さんは、宇宙芸術の先駆者の1人として20年にわたって活動してきましたが、最近になって、改めて「宇宙はすごい!」と思うに至ったと言います。森脇さんを魅了してやまない"宇宙"とはいったいどのような存在なのでしょうか。

「宇宙芸術家」と呼ばれる理由

―森脇さんはどのようなアート作品を発表されているのでしょうか。

 私は、今は"宇宙芸術家"としての顔をもっていますが、出発点は "ライト・アーティスト"として活動してきました。とくにLEDの光を使った作品を多く発表しており、街を彩るイルミネーションや、有名歌手の電飾衣装など、ご覧になった方は多いと思います。どうして自分は光に興味を持つようになったのかと思い返してみると、小学校1年生の頃の原体験が思いつきます。両親に連れられて行った1970年の大阪万博でのことです。各国のパビリオンが立ち並ぶ中で、全体が光に埋め尽くされたスイス館は、まるで光の樹木のようでした。その圧倒的な存在感に思わず見とれて立ち止まってしまい、両親から「早くしなさい‼」と急かされたのを覚えています(笑)。また、田舎育ちだったので、ものすごい数のホタルが光の塊となって舞っているのを見たこともあったかな。このような光景が頭から離れず、この体験を多くの人たちと共有したいと思ったのが、光の空間につながっています。

森脇氏のライト・アート作品「Lake Awareness」(2005年)
森脇氏のライト・アート作品「レイヨ=グラフィー」(1990年)

―ライトアーティストになるのは、ごく自然の流れだったということでしょうか。

 いえいえ。やりたいことは、そんなに簡単に見つかるものではありません。中学・高校の頃には、SF小説をむさぼるように読んでいました。またSFイラストレーターの表紙イラストをまねて絵を描いたりもしていましたね。感動的な人間ドラマが、科学的な裏づけのもとに展開されていくのが興味深かった。SFファンだったので、当然ながら宇宙人やUFOにはくわしいです。どちらかというと宇宙芸術よりこちらの関心のほうが先だったわけです。

 また高校生の頃には、写真にものめり込みました。機械であるカメラを使って化学薬品で現像する写真は、いたって科学的プロセスなのに、できあがった写真には感覚的な表現が溢れています。これもやはり科学的な裏づけのあるアートです。無意識のうちにサイエンスとアートが結びつくところに惹かれていたのでしょうね。でも、当時は、そういうことには気づいていませんでした。

 「サイエンスとアートを表現したい形にすることができる」と気づかせてくれたのは、美術大学に入って出会った先生方でした。まさに日本のテクノロジー・アートの先駆者たちです。このようなテクノロジーとアートを結び付ける分野は、今は「メディア・アート」と呼ばれています。光を使ったライト・アートもその内のひとつです。

―2001年頃から「宇宙芸術家」と名乗っていらっしゃいますね?

 特に肩書にこだわりがあるわけではありません。「自称・宇宙芸術家(笑)」といったくらいの軽い気分で名乗っているのですが、大事なことは、皆さんに「それって何だろう」と気にかけてもらうことです。もちろん宇宙芸術には真剣な気持ちで取り組んでいますが…。

 きっかけは、2001年に水戸芸術館で開催された「宇宙の旅」展に出品したことでした。おそらく公立の美術館で「宇宙と芸術」をテーマに行われた、最初の本格的な展覧会だったと思います。1968年公開の映画「2001年宇宙の旅(監督:スタンリー・キューブリック)」にちなんでタイトルがつけられました。キューブリック監督をお招きする計画もありましたが、残念ながら開催前に亡くなられて実現しなかった。国内外からアーティストが参加し、さらにNASAやNASDA(現在のJAXA)の協力で宇宙技術の展示が行われ、宇宙をテーマに「サイエンスとアートを結びつける」という企画意図の展覧会でした。このとき自分に声がかかったのは大抜擢だった思っています。ここでは自身の代表作となる「時花(トキハナ)」を発表しました。

 この作品は、回転する直径6メートルの円盤に、プロジェクターで映像を映し出します。円盤には蓄光塗料が塗られているので、プロジェクターの映像が焼きつけられ、しばらく残ってやがて消えていきます。そしてまた数分後に一回りして映像が投影される。この繰り返しによって宇宙に流れる長い時間を表現した作品でした。仏教に「輪廻りんね」という言葉があるように、時間は生まれては消え、消えてはまた生まれるというイメージを表現しています。私たちは、宇宙を外から眺めているのではなく、その真っ只中にいますよね。この作品は、円盤の上に乗るのが正しい鑑賞法です。ふつうアート作品は鑑賞者の対象として観るものですが、この作品では中に入ってもらっていっしょに廻ってゆきます。宇宙を体験するというか、とても宇宙的な作品だったと思っています。こうしたことで私は「宇宙芸術家」と呼んでもらってもおかしくないでしょう?

水戸芸術館「宇宙の旅」展に出品した「時花(トキハナ)」(2001年)

―「時花(トキハナ)」という作品で、新境地を拓いたということですね。

 自分なりに「宇宙」をどのように解釈すればよいのか、気合を入れて考えました。後になって「森脇さんには、この展覧会では、これまでのLEDで宇宙を思わせる空間を作ってもらえればいい」と考えていたと聞きましたが、私としてはせっかく「宇宙」というテーマが与えられたのだから、何か新しいことをやりたかった。1990年代から2000年代は情報技術の急速な発展によって、インターネットが普及し、誰もがパソコンを使うようになりました。新しく登場したテクノロジーを使ったアート作品も次々と生まれてきました。そんななかで、私は「新しいテクノロジーを使ったら、こんな面白いものができた」というだけの、メディア・アートのあり方に疑問を感じ始めていました。

 この展覧会に参加して、「宇宙をどのようにとらえるか」という思想を表現する体験をしたことで「テクノロジーに偏りすぎないメディア・アートが、芸術として深まった」と感じられましたね。これ以降、「宇宙」というのは非常に深い内容をもった大きなテーマであることに気づいたので、のめり込んでいきました。

宇宙芸術を広く知らしめた「宇宙芸術コミュニティbeyond」とは

―JAXAのスタッフも参加して設立された「宇宙芸術コミュニティbeyond」に参加されましたね。

 「beyond」には2010年の設立時に誘われて、発起人として参加しました。ただし、それまでにも宇宙芸術について討議する場はありました。東京有明のパナソニックセンターで2009年1月と11月の2回開催された「宇宙芸術シンポジウム」では、会場からもたくさんの意見が出て長時間、議論が尽きることがありませんでした。この盛り上がりで「宇宙に関心をもっている人は多いのに、それを表現する場がない」のが明らかになりました。

 「宇宙芸術コミュニティbeyond」は、定期的な研究会の開催や、宇宙コンサートなど着実に活動を続けました。「beyond」の活動には、2つの波及効果があったと思っています。1つめの波及効果とは、JAXAの方たちが部署を越えて積極的に関わってくれるようになったことです。基本的にJAXAは宇宙関連技術開発のための組織ですが、国際宇宙ステーション(ISS)も稼働し、宇宙で人が滞在できるようになった時代に、JAXA内部でも「宇宙をどうとらえるのか」といった人文・社会科学的な宇宙へのアプローチが重要になってくるという認識が生まれていました。

 そして「beyond」の活動を公開することで、外部への波及効果も生まれました。まさに皆さんに「宇宙芸術」を知っていただく広報効果です。「宇宙」と「芸術」というテーマに惹かれて、自分も関わりたいと志願してくれる人たちも集まって、コミュニティが形成されていきました。このように宇宙芸術への理解を深めていく過程で、「宇宙芸術とは何か」といった学術的な研究だけに終始しないためにも、何か実践的な取り組みをしたいと強く思うようになっていきました。

島民を巻き込んでの「種子島宇宙芸術祭」

―それで、「種子島宇宙芸術祭」を企画されたのですね。

 はい。そもそものきっかけは、種子島宇宙センターと東京の事務所をつないで行ったテレビ会議でした。この時に、種子島宇宙センターのJAXAスタッフから、種子島を舞台にして、宇宙センターと地域の連携を深める宇宙芸術の取り組みの提案があったのです。この提案は参加メンバー全員の心に響きました。2010年代初頭は地方芸術祭ブームだったこともあり、参加メンバーからは「種子島を宇宙芸術の聖地に!」という言葉も出るなどして盛り上がり、「種子島宇宙芸術祭」のアイデアが出てきたのです。

 それで、これまで種子島には全くご縁のなかった私は、とりあえず実際に種子島を訪れてみることにしました。現地JAXAの方に島内を隅々まで案内してもらって、地域の行政、商工会、観光協会の関係者にもお会いするなど、種子島宇宙芸術祭の実現に向けた取り組みが始まりました。

―2012年から5年間プレイベントを行っていますが、どのようなものだったのでしょうか。

 地域の方々に対して、いきなり「宇宙芸術祭をやる」と言ったら、"難しそう"と思われてしまうのではないかという懸念がありました。しかし、はじめて種子島を訪れたときに、小学校の外壁にロケット打ち上げを応援するこどもたちの絵が貼り出されているのを目にしました。島の小学生たちは、毎年ロケットの絵を描いています。宇宙に親しんだ島のこどもたちの作品だけあって、さすがに発想がいいしロケットが非常に詳細に描かれています。しかし、誰もこれを宇宙芸術だとは思っていません。

 そこで、「宇宙芸術は難しいものではない」「宇宙芸術は誰でもできる」それを実践するために「こども宇宙芸術」というワークショップから始めることにしたのです。

 2012年のプレイベントでは、南種子町の全小学校8校のこどもたち約250人に「宇宙を平和にするロケット」と題して絵を描いてもらい、各校の面白い作品を私たちが立体化することにしました。ロケット制作作業をする旧体育館には、先生や保護者の方々、島の人たちも手伝いにきてくれましたし、JAXAスタッフも終業後に立ち寄ってくれました。ここでできあがったロケットは、南種子町で一番大きなお祭りである「ロケット祭り」でお披露目して、多くの人の目に触れることになりました。

 このような私たちの活動を目の前にして、翌年から地域の行政、商工会、観光協会、さらには種子島宇宙センターでロケット打上げ事業を行っている三菱重工業などからも賛同と協力をいただくことになっていきました。

 とくに大きな転機となったのは、「第30回 国民文化祭かごしま・2015」に参加した南種子町で、広田遺跡ミュージアムのオープンにあわせて「黒潮が育んだ古代文化と宇宙芸術」展を開催したことです。このときから私たちの目標がはっきりと認知されるようになりました。その後も準備を続けて、ついに2017年の「種子島宇宙芸術祭」の実現へと至ります。


種子島宇宙芸術祭プレイベント「宇宙を平和にするロケット」(2012年)。
こどもたちが描いた絵を立体化し展示した。
種子島宇宙芸術祭プレイベント「星空イルミネーション」(2013年)。
球体に描いたこどもたちの絵を、種子島宇宙センター内に展示した。

―第一回「種子島宇宙芸術祭」は満を持しての開催だったということですね。

 種子島全島あげての宇宙芸術祭が実現したのは2017年の夏で、2018年、2019年と続きましたが、2020年以降は、コロナの影響で開催には大きな障害がありました。

種子島宇宙芸術祭2017の作品の1つ「はじまりはじまり」(作:ミラーボーラー)
©Hiroshi Takagi(Mirrorbowlers)
種子島宇宙芸術祭2017の作品の1つ「mammalian」(作:椿昇)
種子島宇宙芸術祭の起点となるインフォメーションセンター

 それでも宇宙芸術祭から派生した2つのプロジェクトを続けています。1つは「スーパープラネタリウム ― 星の洞窟」というイベントです。これはプラネタリウム・クリエイター大平貴之さんが開発した世界最高峰のプラネタリウムを、海辺の自然洞窟に持ち込んで上映するというプロジェクトです。これまでに誰も見たことのない異次元の世界が、洞窟の中でプラネタリウムの精細な星空となって映し出されました。この取り組みは全国的に大きな反響を呼びました。コロナ禍のなかでも感染対策に厳重な注意をして、今も実現しています。

スーパープラネタリウム ― 星の洞窟

 「種子島宇宙芸術祭」のキャッチフレーズは「自然と科学と芸術の融合」です。かねてから芸術祭では、宇宙芸術にとって重要な、サイエンスとアートの融合を考えていましたが、スーパープラネタリウムで大自然とも融合してゆくところは、種子島でしかできない特長になると思っています。宇宙の島「種子島」でこそ実現するこのプロジェクトは、難しい言葉や解説抜きで多くの人々が支持してくれています。

 もう1つプロジェクトが続いているのが、「種子島大学」です。

―「種子島大学」とは、島に大学をつくったということでしょうか?

 島内に大学のない種子島に生まれた、あくまで模擬的な大学です。誰もが生徒になれますし、誰もが先生になれます。もともとはアーティストの開発好明さんが三宅島大学で展開していた「100人先生」がベースになっています。ですから三宅島大学と種子島大学は姉妹校になりますね。宇宙芸術祭の期間中には、私も先生になって、島のあちこちにあるアート作品の解説をして回ったこともあります。何かを得意とする人なら誰でも先生になれるので、プラモデル先生の授業などは、こどもたちも大喜びでした。

 こうしてバラエティに富んだ授業の中には、種子島の伝統の継承にも貢献するものもあります。じつは種子島は、鉄砲伝来で知られていますが、そればかりではなく古い歴史と豊かな伝統をもった島なのです。古くから伝わる正月のしめ縄を皆で作ったり、防空壕跡地などの戦争遺産を見学したりすることで、「島を知って愛する人たち」を育成することを目的としています。

 このようなシビックプライドを醸成する取り組みを続けているうち、島の人たちから「自分たちが主体になって運営したい」という申し出があったので、種子島大学は引き継ぐことになりました。コロナで宇宙芸術祭は続けられなくても、まいた種はしっかりと地域に根づいて成長しています。宇宙芸術祭からスピンアウトした種子島大学は、地域にとって最も重要な成果だったのではないかと思います。

種子島大学の授業として実施した焼酎工場の見学

改めて「宇宙芸術とは何か」を考える

―さまざまな経験を通して、今、森脇さんは「宇宙芸術」をどのようにとらえているのでしょうか。

 少し極端な言い方をさせてもらうと、いくら宇宙芸術を求めていっても、「宇宙芸術は存在しない」ということに気づきました。普通、新しい芸術には、"こういうものだ"という定義があります。長く宇宙芸術に取り組んできて、私はこれまでに何度も「宇宙芸術とは何か?」と質問を受け、自分でもそれに答えようと努力してきました。しかし、「定義できない」ということには、とても深い意味があります。もし仮に宇宙芸術を定義すれば、宇宙芸術でないモノと区別されて、宇宙芸術が小さな領域の出来事のひとつになってしまう。

 宇宙芸術祭の準備に際して、さまざまなジャンルのアーティストに参加を呼びかけていたなかで、このようなことを感じるようになりました。アーティストたちは「種子島、いいですね!宇宙、面白そうですね!」と口々に賛同してくれました。それは私のようなメディア・アーティストばかりでなく、絵を描く人も、彫刻をする人も、染色をする人も。宇宙と関係がなさそうに思える人たちからも、自分の創作の中での宇宙との関わりについての声をたくさん聞きました。そうすると、宇宙芸術を定義すること自体がナンセンスに思えてきたのです。

―「宇宙」はあらゆる人に影響を与える存在ということでしょうか。

 人類のやってきたことはしょせん「地球芸術」なんだねと、親しいアーティストと話をしていました。

 「なぜ宇宙が、あらゆる人の創作活動に影響を与えるのか」を考えると、宇宙とは、ひとつの"視点"だからということに思い至ります。私たちは重力のある地上に暮らしていますが、ひとたび宇宙に飛び出すと、新たに地球全体を見下ろす俯瞰的な視点を得ることになります。それは昔、人間のイマジネーションの話であったのですが、現代の宇宙開発技術では、実際に地球を俯瞰することが可能になりました。われわれは科学技術が可能にしたものをベースにして、新しい"視点"について、もっと深く考え始めなければいけない時代に生きているのです。

 宇宙は、それほどに柔軟で包容力のあるテーマなのです。あまりに多くの事柄を示唆的に含んでいるために、宇宙を解釈しようとすると、いろいろな気づきが次々に溢れ出てきて、いくら追究しても果てがありません。これまでも宇宙芸術作品を考えているときに、それは薄々感じていたのですが、最近はっきりと意識するようになりました。

 つまりそれだけ「宇宙はすごい」ってことです。このことを誰もが直感的にわかっているから、宇宙に憧れを抱くのではないでしょうか。そして、それをわかりやすい形で示すことが、芸術の役割ではないかと思うのです。

果てしない「宇宙芸術」の営み

―果てしない「宇宙」の追究に、今後はどのようにアプローチされるのでしょうか。

 「beyond」に参加していたメンバーが中心になって、日本航空宇宙学会(JSASS)の内部に「宇宙人文・社会科学研究会」を立ち上げようとしています。いわゆる文理融合の方向性で、芸術ばかりでなく、哲学、心理学、政治学、文化人類学などの人文・社会科学分野が、宇宙時代になったらどのように変容するのかを総合的に議論する場です。

 JSASSは日本最大の宇宙技術開発に関わる学会で、多くのJAXAの研究者も所属しています。学会は、"JSASS宇宙ビジョン2050"といって「2050年に人類が月に住むために必要な技術開発目標」という達成ロードマップを策定しました。目標どおりになるとすれば、宇宙技術の開発だけでは不十分で、「宇宙をどうとらえるか」という人文・社会科学的な研究の重要度が増してくるでしょう。この活動については、また、成果が上がった段階でお話したいと思っています。

―現在、手掛けていらっしゃる作品はどんな構想のものなのでしょうか。

 筑波研究学園都市にある高エネルギー加速器研究機構(KEK)で、リニューアルに伴って、科学遺産となった旧型の加速器のアート・プロジェクトに取り組んでいます。この研究所で行われている巨大な装置を用いた研究、いわゆるビッグサイエンスにふれあうことは、とても新鮮です。素粒子物理学の世界では、加速器で素粒子を飛ばして、ぶつけることで、宇宙の原理を解明するといいます。KEKの研究者は、また違ったかたちで宇宙の真実を見つめようとしているのですね。KEKでのアート&サイエンス・プロジェクトを通して、サイエンスの世界とアートの世界で共有できるものの正体について、もっと迫りたいと考えています。

 この話のきっかけには、種子島宇宙芸術祭のフェアリング・アートの作品があったと思います。フェアリングとはロケットの先端部で、発射後に外れて海に落下し、回収され最終的には破棄されるものです。JAXAスタッフが宇宙芸術のために、倉庫に保管しておいてくれていたものが宇宙芸術祭で、中村哲也さんの手によって世界初のフェアリング・アート作品としてよみがえりました。

 科学研究のための役割を終えた装置が、アート作品となって再び誕生することで、サイエンスとアートが一体となった作品世界が、これからもたくさん生まれてきそうです。

種子島宇宙芸術祭で発表されたフェアリングのアート作品(作:中村哲也)

―最後に、これまでの宇宙芸術活動を振り返って、

 これまでお話ししてきたように、宇宙芸術の活動を続けていると、人の縁や不思議なめぐり合わせが幾つも重なって、ここまで広がってきました。私たちの活動を支えてくれた人たちは、みなさん本当に宇宙が大好きな人たちでした。その方々の情熱に支えられてきたのだと常々思っています。宇宙は柔軟で包容力のあるテーマであるとお話ししましたが、これからもっと多くの人を巻き込んで、宇宙芸術の影響力の連鎖が止まることがないようにしたいと思います。

構成・文:サイテック・コミュニケーションズ 池田亜希子
写真提供:森脇裕之、小山田裕彦

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